授業を設計するとき、カリキュラムの妥当性を問うとき、あるいは教育政策をめぐる議論に接するとき、「教育は何のためにあるのか」という問いは明示的にも暗黙的にもつきまとってきます。
この問いが厄介なのは、誰もが何かしらの答えを持っているように見えるにもかかわらず、よく聞いてみるとその内実がかなりばらばらだという点にあります。
ある人は「社会に出て困らないための知識と技能を身につけること」と答え、別の人は「一人ひとりの潜在的な能力を引き出すこと」と言い、また別の人は「社会を変えていく力を育てること」だと主張します。
どれも一定の説得力を持っていますが、それぞれが前提にしている教育観は異なっています。
この記事では、教育は何のためにあるのかをめぐる議論において代表的ないくつかの立場を整理します。
教育目的をめぐる四つの立場
教育の目的に関する議論は古くからありますが、ここでは大きく四つの立場に整理して概観します。
現実にはこれらの立場は明確に分離しているわけではなく、互いに重なり合ったり緊張関係を持ったりしていますが、教育目的をめぐる議論の見通しを得るための手がかりとしてはこの区分が有用です。
個人の発達を促すもの
教育の目的を個人の内的な発達に求める立場は、ルソー(Rousseau, 1762: 2007)の『エミール』に一つの古典的な表現を見ることができます。
ルソーにとって教育とは、子どもの自然な発達の過程を社会が不当に歪めないようにすることでした。
教育は外部から何かを詰め込む行為ではなく、子どもがすでに内在的に持っている力が十全に発揮されるように環境を整える営みであるという考え方です。
この発想はその後の児童中心主義(child-centered education)の思想的背景となり、20世紀に入るとデューイ(Dewey, 1916/1975)の経験主義教育哲学にも受け継がれます。
ただ、デューイの議論は単に「子どもの自然な成長に任せる」というものではなく、経験の質と連続性を重視した、より構造化された教育観を提示しており、ルソーの立場とは重要な点で異なっています。
教育目的を「個人の発達」に置く立場は、子どもを既存の社会の型にはめるのではなく、その人自身の固有性を尊重しようとする点で魅力的です。
しかし同時に、「発達」とはそもそも何を意味するのか、何に向かっての発達なのか、という問いが残ります。

日本の教育者、斎藤喜博の教育論にも児童中心主義・経験主義教育の影響を感じることができます。
斎藤喜博の教育思想は日本社会のスタンダードであることはありませんでしたが、戦前から戦後にかけての日本の学校教育に大きな影響を与えています。
社会への参入を可能にするもの
教育を社会化(socialization)の手段と捉える立場は、デュルケーム(Durkheim, 1922: 1972)に代表されます。
デュルケームにとって教育とは、個人を社会の一員として統合していく過程であり、共通の価値・規範・知識を次世代に伝達することで社会の存続と統合を図る営みでした。
このようにみてみると保守的な発想に聞こえるかもしれませんが、デュルケームの議論で重要なのは、教育が社会的機能を果たしているという認識です。
時間割を守る、集団で行動する、教師の指示に従うなど、学校で行われていることの多くは、教科学習の内容とは直接関係のない社会的な規範の内面化に関わっています。
この点については潜在的カリキュラム(隠れたカリキュラム)を論じた記事で詳しく取り上げる予定です。
社会化としての教育はかなり現実的な立場と考えられますが、この立場だけでは「どのような社会に統合するのか」という規範的な問いに答えられないのです。
教育が「いまある社会」への適応を促すだけなら、不公正な社会秩序を無批判に再生産してしまう可能性があります。
経済的な機能を果たすもの
1960年代以降、人的資本論(human capital theory)の台頭とともに、教育を経済的な投資として捉える見方が教育政策に大きな影響を及ぼすようになりました(Schultz, 1961)。
この立場では、教育は労働者の生産性を高め、経済成長に寄与する手段として位置づけられます。
現代の教育政策の多くはこの経済的合理性の論理に強く規定されています。
OECDのPISA(Programme for International Student Assessment)が各国の教育政策に与えている影響力の大きさは、教育が経済競争力と結びつけて理解されていることを示す一例です。
しかし、教育の目的を経済的な機能に還元してしまうと、「測定可能な能力の獲得」ばかりが重視され、教育の持つそれ以外の意味が見えにくくなります。
Biesta(2009)が指摘するように、教育の成果を測定する手段が教育の目的を規定してしまうという逆転現象は、現代の教育が抱える重大な問題の一つです。

つまり「測れるものが大事なもの」にすり替わってしまうという危険性があるわけですね
既存の秩序への問い直しを可能にするもの
上の三つの立場とは異なる方向から教育目的を構想したのが、フレイレ(Freire, 1970)です。
フレイレは、教育が社会秩序に人々を適応させる装置(銀行型教育)として機能してしまう危険性を批判し、教育をむしろ社会の構造を批判的に認識し、変革を志向するための営み(課題提起教育)として再定義しました。
フレイレの議論はブラジルの識字教育という特定の文脈から出発していますが、その影響はそこにとどまりません。
教育を「解放」のための営みと捉える発想は、その後の批判的教育学(critical pedagogy)やフェミニスト教育学、ポストコロニアルな教育論に広く影響を与えています(Giroux, 2011)。

フレイレの教育観については以下の記事で解説しています。
これらの立場は排他的ではない
ここまで四つの立場を概観しましたが、注意すべきなのは、これらは互いに排他的な選択肢ではないということです。
現実の教育は、これらの目的を同時に果たそうとしています。
Biesta(2015)は、教育の機能を「資質化(qualification)」「社会化(socialisation)」「主体化(subjectification)」の三つに整理したうえで、これらは常に同時に作用しており、教育に関する判断はこの三つの間のバランスをどう取るかという問題であると述べています。
この整理が有用なのは、教育目的に関する議論が起こるとき、多くの場合その原因が「これらのうちどれを優先するか」をめぐる暗黙の対立にあることを可視化できるからです。
たとえば「探究型学習を導入すべきか」という具体的な問いも、「知識・技能の習得(資質化)」の観点からと「自ら問いを立てる力(主体化)」の観点からとでは、判断がまったく異なります。
このような場面で教育目的論の議論が意味を持つのです。
教育目的は一つの定まったものではない
「教育は何のためにあるのか」という問いに唯一の正解は存在しません。
それどころか、もしどこかの時点で最終的な答えが確定してしまったら、教育という営みそのものが硬直化してしまうでしょう。
教育目的をめぐる議論は、教育学という学問の中で最も基底的な問いの一つです。
その意味で、この問いは「一度答えを出して終わり」にすべきものではなく、教育に携わる者が繰り返し立ち戻ることを求められる性質のものです。
教育実践や教育政策が「何のために」行われているのかを常に問い直すこと、それ自体が教育哲学の営みだと言えます。
この記事では教育目的論の概観を提供しましたが、ここで取り上げた個々の立場や思想家に関して、今後個別の記事で掘り下げていく予定です。
参考文献
Biesta, G. (2009). Good education in an age of measurement: On the need to reconnect with the question of purpose in education. Educational Assessment, Evaluation and Accountability, 21(1), 33–46.
Biesta, G. (2015). What is education for? On good education, teacher judgement, and educational professionalism. European Journal of Education, 50(1), 75–87.
Dewey, J. (1975). Democracy and education: An introduction to the philosophy of education. Free Press. (Original work published 1916)
Durkheim, É. (1972). Education and sociology (S. D. Fox, Trans.). Free Press. (Original work published 1922)
Freire, P. (1970). Pedagogia do oprimido. Paz E Terra.
Giroux, H. A. (2011). On critical pedagogy. Continuum.
Rousseau, J.-J. (2007).『エミール(上)(中)(下)』(今野一雄訳)岩波文庫.(原著1762年刊)
Schultz, T. W. (1961). Investment in human capital. The American Economic Review, 51(1), 1–17.



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